あたまに運動靴

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雑記。知識の体系的な整理や学術的な解釈の紹介でない

日本語形容詞の意味拡張 -「やばい」の絶対値的用法

 東京堂出版から出ている『現代形容詞用法辞典(新装版)』という5000円以上する、現代形容詞の意味・用法・類義語・イメージ・ニュアンスを詳説するという本に、やばいという語が収録されていて、そこには

やばい yabai
自分にとって不都合な様子を表す。マイナスイメージの語。もと盗賊・てきや仲間の隠語から共通語化した語で、日常会話で用いられる俗語である。品の良くない言葉であるから、女性はあまり用いない傾向にある。

 と書いてあった。


 「やばい」は、不都合や具合の悪い様を意味する形容動詞「やば」が形容詞化したものであり、たしかに本来否定的な意味を持つ語であるが、"現代形容詞", "新装版"と銘打っているからには上の解説だけでは不十分じゃないかと思った。

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「厄場(やば)」は牢屋や看守を意味すことば


現代における「やばい」が表す意味内容は3種類あって、本来の否定的な用法に加えて、肯定的な用法、肯定・否定性を持たない用法に大別できると思う。


 否定的な用法と肯定的な用法の両方が存在するのは、「やばい」の限定的な元来の否定的な意味が漂白化し、「やばい」の持つ「事態の甚だしさ」を表す意味が残された結果、非限定的な程度形容詞へと変化して、肯定・否定性は文脈によって決定されるようになったのだといえる(と思う)。


 また、「やばい」は形容詞としてだけでなく、動詞や形容詞を修飾する副詞的な用いられ方もする。語形変化を伴わずに強調詞として、他の形容詞の"程度の甚だしさ"を表す。
この用法や程度形容詞としての用法のように、肯定性及び否定性をそれ自体が担わずに程度性の甚だしさのみを示す用法を、絶対値的用法と呼んでる。


 ただ、「やばい」の持つ否定性が一旦完全に漂白化されると仮定すると、それが否定的な意味で用いられる場合に、一度失った否定性を文脈によって再び獲得しているということになってしまう(それは言語の変化や拡張の経済性に反する)。また、形容詞の副詞的な用法について、「すごく」「おそろしく」などが評価の正負に関わらず程度の甚だしさを表すのに対し、「やばい」の副詞的用法は、本来の否定的な意味を肯定的な語(被修飾語)と併せて用いるミスマッチによって刺激的な表現にしているという側面がある。
これら2つを踏まえると、「やばい」が本来もつ否定性は"完全に"漂白化されるわけではないと考えられるのだと思う。


 「やばい」の絶対値的用法だけでなく「すごい」も語形変化を伴わずに用言を修飾するようになっている。「これすごい美味しい!」「今日すごい寒い」のようなやつのこと。「美味しい」の程度性を強調するなら、「すごい」ではなく形容詞連用形の形をした「すごく」という副詞になるべきなんだけれど、「すごい」のまま用言に接続するように用いられる。


 形容詞の連用形は、用言といっても「なる」「ない」のような語に接続するか、助詞の「は」「て」に接続する形である。だから「すごく美味しい」の"すごく"は、形容詞「すごい」の連用形ではなく、「すごく」という副詞であると考える(形容詞の連用形からできた副詞だから、同じではあるけれど)。

すごい-すごく(連用形)
  -すごくなる, すごくない, すごくて


 でもその、形容詞の程度副詞的用法である「すごい暑い」の"すごい"は、どう解釈したらいいんだろう。用言を修飾している時点で形容詞とは言えないんだけれど、「ーい」という形をとっている以上、連体形か終止形のどちらかだと考えられるはずで、個人的には(しいて言うなら)連体形ではなく終止形だと思う。
「今日はすごい暑いな...」を例文にとる。まず「暑い」は体言ではないので、"すごい"を連体形だと解釈する線は消える。しかし、"すごい"を終止形だと考えるからといって、「今日はすごい │ 暑い」というふうに、「今日はすごい。暑いからだ。」という構造ではないから、"すごい"の部分で言い切りの形をとっているというわけではない。終止形だと解釈することで、「すごい」というカタチの、いわば「超」のような"接頭辞"と見た。接頭辞としての「超」も似たような境遇にある語で、もともとは「超音波」「超音速」のように名詞につく(形容詞性名詞を含む)語だったんだけれど、「超嬉しい」のように強調詞としての用法を獲得した語である。
(ちなみに接"尾"辞としての「超」は「未満」の対義語)


 それと、「やばい」の否定的用法は連結語句によって定義外の意味内容を付加させるはたらきがあるといえると思う。

「かなりやばい状況」

これは、「危ない」「不都合な」という定義通りの意味を表す。

「それってやばい仕事じゃないの?」

この文脈だと、「犯罪など法律にふれる仕事」を表していると解釈できる(定義と照らし合わせれば、「危ない仕事」と言っているんだろうと言えるけれど、結局その"危ない仕事"って何なのかと言うと、「犯罪絡み」というふうなニュアンスを内包している)。一見、「やばい」は「あぶない」や「まずい」(不都合さを表す形容詞だから)で置き換えられそうだけれど、「まずい」よりは切迫感がある。


 意味拡張された語はその多義性から他の語の代替として用いることができるようになる。このことは言葉の持つ認識機能とそれの思惟することへの関与をかんがえると、概念の操作的な運用をより不器用的にするし、物事を漠然と観念的にしかとらえられなくなると言うこともできるんだけど、むしろ、拡張された範囲(定義域)の他の語と被っていない意味領域については、拡張された「やばい」(かわいい、エモい等も同様(エモいは新語なので拡張というべきではないけれどこれは当てはまる))でしか表せない意味内容、出せないニュアンスがあると思う。その語でもってでしか概念化できない事象を、語の意味拡張が改めて描き起こしていくというのは、すごく面白いなと思う。