あたまに運動靴

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雑記。知識の体系的な整理や学術的な解釈の紹介でない

「怒られが発生した」/問題の外在化, 自動詞の受身

 最近Twitterで「怒られが発生する」というふうな言い回しをよく見かけた。怒られている対象が自分か他人かに関わらず他人事感を表現できるところがおもしろいと思う。

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 まず、動詞+助動詞〈受身〉の形である「怒られる」が形態論的変換(ゼロ接辞による派生(?))によって連用形と同形の名詞へと品詞転換されたと考えられると思う。そして、それが「発生した」と言っているんだけれど、"発生する"というのは「起こること、生ずること」をいう紛れもない自動詞なので、これが自分はあたかも関与していないかのようなニュアンスを表現する。では「先生が自分を怒った」というふうに言うが、「怒る」は他動詞なのかというと実はそうではない。「怒る」は感情の変化や状態を表す自動詞なので、厳密に言うと本来は「先生が自分を叱った」が正しい。「怒られが発生した」が内包する所謂"他人事感"は、受動態を名詞化して自動詞をあてがうという構造にのみ因るように思えるけど、実際は、対象を指定する他動詞「叱る」の代わりに、自己で完結するという性質をもつ自動詞の「怒る」を用いているということも誘因であるように思った。

「先生が私を叱った」
「先生が私を怒った」
「先生は私に怒った」

1つ目について、「叱る」は他動詞なので、動作の直接的な対象を表す格助詞「を」を用いて、"私を"と書く。これは文法構造的にも正しい表現であり、他動詞が故にその対象が不在では意味が通らないため、個人的にはなんだか"対象が居て当然感"があるように感じる。2つ目については逆で、「怒る」は自動詞であるため、本来はヲ格をとることで対象をいうことはできない。日常的に用いる表現なので意味は通るが文法構造的には正しくない。そして3つ目について、これは格助詞「に」が体言である「私」につき、連用修飾語として「怒る」にかかっている。意味も通じるし文法的にも正しい。
 「怒られが発生する」というフレーズが形成される際、まず名詞化の前に受け身への変換が行われているが、これは「怒る」を「叱る」と同義の他動詞として見たものである2つ目の文が受動態なったものと考えられる。何故なら、3つ目の文は「怒る」が自動詞として用いられており、ふつう自動詞の受動態は形成されないからだ。


 しかし、実は日本語には自動詞の受身が存在する。3つ目の文「先生は私に怒った」と同じ文法構造をしている次の文章を例にしてみる。

「私が突然大きな声をだしたので、周囲の人は私に驚いた。」

 意味をとりやすくするため文脈として「私が突然大きな声を出したので」を付け加えたが、主語が「周囲の人」、「驚く」は自動詞であり、格助詞「に」が「私」につき連用修飾語となり「驚いた」にかかっているので、同様のつくりであることがわかると思う。そしてこの文章はたしかに受身にすることができて、

「突然大きな声を出してしまったので、私は周囲の人に驚かれた。」

 というふうに書きなおすことができる。ここでは"私は驚かれた"といっており、「驚かれた」は五段活用動詞「驚く」の未然形に助動詞〈受身〉の「れる」が接続したものである。自動詞を受身にするにあたって、勿論どの動詞でもいいというわけではなくて、「ドアが開かれた」などというふうに書くことはできないのだけれど、「怒る」や「驚く」などの感情を表す自動詞以外にも受身になれるものは幾つか存在する。


 例えば「逃げる」は自動詞である("怪獣を逃げる"とは言わない。言うならば"怪獣から"である。)けれど、

「嫁に逃げられた」

 などという。下一段活用動詞「逃げる」の未然形に助動詞「られる」が接続したもので、やはりこれも〈受身〉である。他にも、

「帰り道に雨に降られる」
「横の席で大声で話されたから寝れなかった」
「夜中に子供に泣かれる」

 というような表現が挙げられ、これらには≪迷惑≫や≪被害≫というような性質が共通してみられると思う。感情を表す動詞群、迷惑や被害を表す群、、といった具合にある程度分類ができるのかもしれない。自動詞の受身についての言語形式的な特徴を考えるのもおもしろそうだと思うので、別の機会にじっくり考えたり調べたりしてみたいと思う。


 「怒られが発生した」という表現が持つ、あたかも"責任の所在は自分にはない"というふうに感じさせる力と、怒られているという事象に対する客観性の強さは、所謂問題の外在化という手法にあたるように思うし、それが「怒られが発生した」という言い回しのおもしろみの理由であると思う。問題を自分自身に内在するものとするのではなく、問題を自分とは切り離し自分の外部にあるように言うことで視点を切り替え情緒的なバランスをとるようなはたらきがある、みたいなことなんだと思う。「あー怒られてるなー、自分、不快に感じてるなー」というふうに捉えることで、ある種の平穏や安堵感のようなものを得る、そして「怒られが発生」というコミカルな文体のフレーズを口にする或いは文章として外に出すことでユーモラスに発散する感じなのかな