あたまに運動靴

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雑記。知識の体系的な整理や学術的な解釈の紹介でない

仙台の良いお店 - 古本屋

今年の3月で仙台を離れることが決まった。仙台の良いお店をいくつか挙げたいと思う。


1. 書店&cafe magellan 

入口. 外にも本が置かれている.

店内1. カウンターでコーヒーを注文できる. 

店内2. コーヒーを飲みながら, 買った本を読んだりできる.

晩翠通りにある古本と喫茶のお店。本のジャンルは人文系や美術系が主で、歴史や思想、社会、建築など幅広く置かれている。自然科学系の本はあまり多くない。
研究室からバイト先へ行く時に寄りがち。


2. 阿武隈書房

入口

店内1. 結構広め.

店内2. 奥まである.

錦町公園近く、愛宕上杉通りにある古本屋。取り扱いジャンルは幅広いが、本だけじゃなく、昔のポスターや写真、版画や絵画、レコード、さらには置物や玩具といった雑貨も置かれている。
このお店は支店で、本店はいわきにあるらしい。チャリを停める場所に悩む。


3. 昭文堂書店

店外観. 中は広くはない.

向かい側. 雀荘とか古着屋とかある辺り.

アーケードを一番町の方へ抜けた先の通りにあるお店。反対側には雀荘とか古着屋、ピザ屋さんがあるあたり。主に専門書が置かれているお店で、仙台の古本屋では珍しく、理工系の分野の取り扱いが多い。

入って右側は自然科学系の学術書が置かれている。電磁気や流体力学量子力学といった物理系や統計や解析みたいな数学系が一番多かった気がする。無機化学や分析化学、有機、生化学や細胞生物学、脳科学などといったジャンルもあったと思う。
左側は人文科学、社会科学系の専門書が置かれている。比較言語学や社会言語学、言語人類学と呼ばれるような領域の言語学系の専門書が置かれていた。その他にも、歴史や思想、社会学といった感じのものもあった気がする。

 

4. book cafe 火星の庭

店外観.

店内1. 席がある.

店内2.

定禅寺通りの東端、土屋鞄とパン屋に並んだカフェのあるお店。文芸書や思想、郷土史、その他にも絵本や児童書も置いてある。店内にはカフェが併設されていて、コーヒーと軽食・デザートが頂けるっぽい。アップライトピアノも置かれている。
お店をでると、隣のパン屋さんからかなりいい匂いがする。

もっと知りたい関西ことば

 最近思ったんだけど、

「それ確か先輩が~って言ってた気がする」
「おれ昔サッカーやってたんだんよね」

のようなときの「てた」の発音について、"いってた"[iQteta]が "いっつた"[iQtsta]、"やってた"[jaQteta]が "やっつた"[jaQtsta]に発音されることがよくある気がする(特に10~20代男性のあいだでの会話で)。これは「て」の音に関して、母音が弱化あるいは脱落したって考えていいのかな?

 これはよく言われる話だけれど、反対に、関西人はよく母音を前に押し出すようにして話すように思う。
我々関東人が「タクシー」と発音する際[taku ɕiː]の"ク"の音は、殆ど子音のみが発音されている気がする(無声軟口蓋破裂音である"ク"の[k]と無声歯茎硬口蓋摩擦音である"シ"の[ɕ]、この2つの無声子音に挟まれた"ク"の母音である[u]が弱化するような感じ)。一方で、関西人が「タクシー」と発音する際にこのような母音の脱落が起こることはなく、むしろはっきりと「く」と発音される(発音は[takɯ ɕiː]といった感じで、「く」の母音"ウ"をしっかりと言うイメージ)。「ネクタイ」という語であれば、関東人が"ネkタイ″のように言うのに対し、関西人ははっきりと"ネクタイ″と発音する、といった感じだ。

他にも”母音を前に押し出すように話す”の例を挙げると、「なんか歯が痛いんだよね」と言う時には、「なんか歯ぁが痛いねんな」のように[ha]の母音を強調するように発音したり、「気ぃ悪いなあ」のように[ki]の母音が長く押されるように発音したりと、一音節の語の場合には母音がさらにもう一つ重なるようにして発音されることなども分かり易い例だと思う。

 これを踏まえると、上で挙げた

"いってた"[iQteta]→"いっつた"[iQtsta]

の母音のリダクションは、若者言葉的な変化というよりむしろ、共通語或いは東京言葉の発音特徴なのかな


 関西弁について気になることは沢山ある。中でも、関西弁の否定形の文法的な使い分け、動詞の否定形が形成される際に動詞に接続する否定形態素の決定される規則、についてよく知れたらいいなと思う。

共通語では否定のバリエーションは「ない」の一種類であるのに対し、関西弁の否定形はこれに加えて、「ん」「へん」「ひん」が存在する。「できる」という動詞句の否定であれば「できない」「できん」「できへん」「できひん」のように言うことができる。しかし、どのような動詞であっても4ついずれの否定形をつくれるわけではないようである。例えば、「知る」の否定形であれば「知らん」が一番よく耳にするが「知らへん」というのは殆ど聞かない気がする。そして「知りひん」とはまず言わないだろう。知らんけど。

また、「する」の否定形は、「しない」「せん」「せえへん」「しいひん」のように言うことができる。「する」は、この動詞だけの特殊な活用をする。語幹と活用語尾の区別を持たず、未然形は「し」「せ」「さ」と活用する。どうやら、否定の「へん」「ひん」は、直前に来る動詞句の母音が、否定形態素の頭の母音と揃うように選択される。語中に現れる母音を決定するこのような規則を、母音調和というらしい。ウイグル語やモンゴル語ハンガリー語のようなユーラシアの言語でよくみられる。

しかし、「行く」の否定の形としては「行かへん」も「行けへん」も両方の用例が考えられる。そして、この2つにはしっかりと使い分けがあるようだ。つまり、単に母音調和が起きているものとそうでないもの、というわけではないらしい。まず、「行かへん」は単純に「行かない」、つまり"I don't go."の形を意味している。そして、「行けない」"I can't go."は、可能の助動詞「れる」の未然形を挿入して「行かれへん」の形で表現できる。すると、「行けへん」は共通語に訳したときに「行かない」「行けない」のどっちなんだろうか。

「行かへん」→「行かない」"I don't go."
「行けへん」→ 〈「行かない」or「行けない」のどっちに近いニュアンス?〉
「行かれへん」→「行けない」"I can't go."

ちょこっと調べてみたり友達に聞いてみたりしたけれど、「行かへん」と「行けへん」は基本的には同じであり、不可能を表すのは「行かれへん」のみであるという人や、「行けへん」は「行かへん」よりも不可能のニュアンスを含むが、「行かれへん」とも明確に使い分けられているという人もいるようで、よくわからん。

関西弁ムズ

温度形容詞のあれこれ

 霜の声が聞こえるような冬の朝にベランダに出たあなたは、

「うわベランダ寒っ」

と言うことができる。一方で、暖房の効かない冷えた部屋で眠るとき、布団から脚がはみ出てしまったあなたは、布団を直しながら

「あ脚が寒い、、」

と言うことができる。さらには、外で不意に北風に吹かれたとき、

「あーー風が寒い!」

と言うことができるだろうし、天気予報で最低気温が氷点下であることを聞いたときには

「今日は寒いのか、、」

とつぶやくことができる。同じ「寒い」という形容詞であるけれど、1つ目は「ベランダ」という場所について述べていて、2つ目は自分の「脚」という自身の一部について述べている。3つ目は場所でも物でもなく、いわば〈寒さの原因〉を対象にとっているように見える。4つ目は、、なんだろう。

 さらに、「うるさい」は「寒い」と同様に感覚を表す形容詞であるが、

「電車の通る音がうるさい」

と言うのに対し、

「電車が通るので耳がうるさい」

と言うことはできない。「寒い」が対象物と感覚器官(先の例でいう「脚」)の両方を主語にとれるように見える一方で、「うるさい」は音を発する対象物(あるいはその音が響く空間)のみを主語にとり、感覚器官を対象にすることはできないようである。このような形容詞が述べる対象物の範囲は、どのような規則で決められるんだろうか

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 日本語形容詞には、主観的な感情や味覚や温度といった感覚を表すもの、客観的な物の性質や特徴を表すもの、その他にも様々なものがある。そのうち、量を表す形容詞の分類について、形容詞群を『対象が〈物〉であるか〈場所〉であるか』という基準から二分するという分け方を考えることができる。例えば、「長い」「重い」といった形容詞は〈物〉を対象にとるものである。反対に、「広い」のような形容詞は〈場所〉について述べるものである。

 そして、"温度"も、"質量"や"広さ"といった量の一つであると解釈すると、上と同様に温度を表す形容詞についても、それが『〈物〉の温度なのか〈場所〉の温度なのか』という、対象の意味に基づいて分類することができるだろう。
「冷たい」「ぬるい」といった形容詞は「これは冷たい」と言えて、「ここは~」とは言えない。だから、これらは〈物〉の温度を表す形容詞である、と言えそう。そして「寒い」「涼しい」といった形容詞は「ここは涼しい」と言えて、「これは~」とは言えない。だから、これらは〈場所〉の温度を表す形容詞である、と言えそう。



 しかし、ここで疑問を持ったことがある。それが、先に述べたような、〈形容詞の対象〉と〈その形容詞が表す様態を知覚する感覚器〉の両方をガ格にとることができる形容詞の存在についてだ。


量を表す形容詞
のうち〈物〉について述べる形容詞である「長い」「重い」について、

「この棒は長い」
「この買い物袋は重い」

に対応して、"長さ"を知覚する器官である視覚(目)や、"重さ"を知覚する腕を主語にして

「(長い棒を目にして)目が長い」
「(重い買い物袋を持って)腕が重い」

などと言うことはできない。
同じく量を表す形容詞のうち〈場所〉について述べる形容詞である「広い」について、

「この部屋は広い」

に対応して、______"広さ"を知覚するのは身体全体であろうが、やはりそれを主語にして

「(広い部屋の真ん中に立って)身体が広いなァ」

といった文をつくることはできない。

一方で、温度を表す形容詞のうち〈物〉について述べる形容詞である「冷たい」については、

「氷が冷たい」

に対応して、

「(冷たい氷を手で持って)手が冷たい!」

と言うことができる。
同じく温度を表す形容詞のうち〈場所〉について述べる形容詞である「寒い」についても、

「廊下が寒い」

に対応して

「(寒い廊下をスカートで歩いて)脚が寒い」

と言うことができる。
このように、温度形容詞がその対象と感覚器の両方を主語にできるのに対して、温度以外の量を表す形容詞ではそれができないように思える。量を表す形容詞温度を表す形容詞の両方とも、『対象が〈物〉か〈場所〉か』で分けることができるという同じ性質を持つ形容詞群であるにもかかわらず、このような違いを考えることができる。

 このことについて、この違いは、その形容詞が表す様態の知覚が生理的な感覚に基づいているかどうかという違いによるのではないか、と考えた。"温度"という量は、〈暑い/寒い〉 〈熱い/冷たい〉〈暖かい/涼しい〉といった皮膚や舌といった身体における感覚器によって認識される触感から判断され、快/不快の感覚などと併せて処理される量であると思う。しかし、"長さ"や"広さ"という量は、生理的な感覚というよりは、対象について得られた情報を何らかの基準と比較することで判断しているに過ぎないので、目で見て長さを知覚したり、手で抱えて重さを感じたりと、必ずしも身体の感覚器で認識する必要はなく、「その部屋は家賃5万で12畳ですよ」などと情報のみを与えられた場合でも「その部屋は広い」というように言うことができるのではないだろうか。

 ここで、温度形容詞生理的な知覚に基づいた他の感覚形容詞について、その対象と感覚器の両方を主語にできるのかどうかを見ていきたいと思う。例えば、感覚形容詞のうち〈物〉について述べる形容詞である、「甘い」のような味覚についての語はどうだろう。

「このイチゴはとても甘い」

に対応して

「(とても甘いイチゴを食べながら)舌が甘い!」

という文を作ってみると、これは不自然である。それでは、感覚形容詞のうち〈場所〉について述べる、「暗い」のような語はどうだろう。

「この部屋は暗い」

に対応して

「(暗い部屋で)目が暗い」

という文を作ってみると、やっぱり不自然だ。表したい感覚が、生理的な知覚に基づく感覚であるかどうかという点は、その形容詞の対象と感覚器の両方を主語にできることの根拠ではないらしい。


 そもそも、温度形容詞がその対象と感覚器の両方を対象にできることについて、〈物〉について述べる温度形容詞と〈場所〉について述べる温度形容詞とで、その根拠は異なるものであるかもしれないな、とも思った。両者には次のような、温度に関わる語として決定的な用法の違いがある。〈場所〉について述べる「寒い」「暑い」といった類の温度形容詞は「寒がる」「暑がる」の形をとれるのに対して、〈物〉について述べる「冷たい」「熱い」といった類の温度形容詞は「冷たがる」のように言うことはできない。

 さらに、この差異についても、これらの温度形容詞の対象が〈物〉であるか〈場所〉であるかによって生じる違いであるとも限らない。それぞれの温度形容詞が持ち得る何らかの別の要素が、「~がる」型の形成に関与しており、そして単に、同時にその要素が温度形容詞の対象を〈物〉とするか〈場所〉とするかの決定にも関与している、という仕組みも考えられるはずだからだ。例えば、"温度"を感じる部位による違い、局所的な感覚に基づくのか或いは特定部位ではなく身体全体の統一的な感覚なのかといった要素や、快/不快感覚の有無、知覚部位と外部温度との差、などなど、、


 そしてもうひとつ疑問なのは、「寒い」を述部とする冒頭の例文の

「ベランダは寒い」
「冬は寒い」
「北風が寒い」

のような文においては、どれを主語とするんだろうかということ。まず、「ベランダは寒い」の文について、「寒い」の認知主体は言語化されておらず("寒い"と感じているのは話者であるが、文中に一人称は出てこない)、「ベランダ」は述語である「寒い」が述べている対象であると同時に、認知主体がいる〈場〉でもある。ここで、主語(主格)は、「ベランダ」なんだろうか?「ベランダは」は発話者がおかれた状況を示す状況語であり存在物ではないため主語にはなり得ない、と考えれば、この文には主語は現れないことになる。一方で、この文を認知主体のいる〈場〉の属性について述べている文だと解釈すれば、「ベランダ」を主語とみなせると思う。なお、「冬のベランダは寒い場所である。」であれば、「寒い」は述語ではなく「場所」にかかる修飾語であり、「ベランダ」は「場所である」の主部であるといえる。
 けれども、「冬は寒い」の文に関して、「冬」は〈場所〉ではない。「夜は寒い」なども同様であると思う。これも、場所placeそのものではないが、話者がいる状況としての"局所的な時間"を〈場〉の一種とみなして、この「~は寒い」の構造をとっているんだろうか。

 なお日本語文の主語については

「象は鼻が長い」(三上文法)
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」(抜けたのは何?)
「お昼ご飯何がいい?」「ぼくはハンバーグ!」「ぼくはウナギ!」(ウナギ文)
「ダイエットにオススメの食べ物を教えてよ」「うーん、コンニャクは太らないよ」(コンニャク文)

のような「主語は何?」「主語はないの?」となるケースが多く存在していて、様々な議論が交わされているようなので、おもしろい

 

 さらにさらに、「ベランダ」は〈場所〉だけれど、「北風」はなんだろう。不思議なことに、「北風」は「寒い」と「冷たい」の両方の類の温度形容詞とも共起する。「北風が寒い」の場合は、風を「身体を統一的に取り囲むもの」、つまり〈場〉として捉えていて、「北風が冷たい」の場合は、風を「身体の任意の部位で瞬間的に触れるもの」〈物〉として捉えることで、ガ格とっているのかな。

もっと考えたいことは沢山あるけれど、よく整理できたらまた書こうかなと思う。

「怒られが発生した」/問題の外在化, 自動詞の受身

 最近Twitterで「怒られが発生する」というふうな言い回しをよく見かけた。怒られている対象が自分か他人かに関わらず他人事感を表現できるところがおもしろいと思う。

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 まず、動詞+助動詞〈受身〉の形である「怒られる」が形態論的変換(ゼロ接辞による派生(?))によって連用形と同形の名詞へと品詞転換されたと考えられると思う。そして、それが「発生した」と言っているんだけれど、"発生する"というのは「起こること、生ずること」をいう紛れもない自動詞なので、これが自分はあたかも関与していないかのようなニュアンスを表現する。では「先生が自分を怒った」というふうに言うが、「怒る」は他動詞なのかというと実はそうではない。「怒る」は感情の変化や状態を表す自動詞なので、厳密に言うと本来は「先生が自分を叱った」が正しい。「怒られが発生した」が内包する所謂"他人事感"は、受動態を名詞化して自動詞をあてがうという構造にのみ因るように思えるけど、実際は、対象を指定する他動詞「叱る」の代わりに、自己で完結するという性質をもつ自動詞の「怒る」を用いているということも誘因であるように思った。

「先生が私を叱った」
「先生が私を怒った」
「先生は私に怒った」

1つ目について、「叱る」は他動詞なので、動作の直接的な対象を表す格助詞「を」を用いて、"私を"と書く。これは文法構造的にも正しい表現であり、他動詞が故にその対象が不在では意味が通らないため、個人的にはなんだか"対象が居て当然感"があるように感じる。2つ目については逆で、「怒る」は自動詞であるため、本来はヲ格をとることで対象をいうことはできない。日常的に用いる表現なので意味は通るが文法構造的には正しくない。そして3つ目について、これは格助詞「に」が体言である「私」につき、連用修飾語として「怒る」にかかっている。意味も通じるし文法的にも正しい。
 「怒られが発生する」というフレーズが形成される際、まず名詞化の前に受け身への変換が行われているが、これは「怒る」を「叱る」と同義の他動詞として見たものである2つ目の文が受動態なったものと考えられる。何故なら、3つ目の文は「怒る」が自動詞として用いられており、ふつう自動詞の受動態は形成されないからだ。


 しかし、実は日本語には自動詞の受身が存在する。3つ目の文「先生は私に怒った」と同じ文法構造をしている次の文章を例にしてみる。

「私が突然大きな声をだしたので、周囲の人は私に驚いた。」

 意味をとりやすくするため文脈として「私が突然大きな声を出したので」を付け加えたが、主語が「周囲の人」、「驚く」は自動詞であり、格助詞「に」が「私」につき連用修飾語となり「驚いた」にかかっているので、同様のつくりであることがわかると思う。そしてこの文章はたしかに受身にすることができて、

「突然大きな声を出してしまったので、私は周囲の人に驚かれた。」

 というふうに書きなおすことができる。ここでは"私は驚かれた"といっており、「驚かれた」は五段活用動詞「驚く」の未然形に助動詞〈受身〉の「れる」が接続したものである。自動詞を受身にするにあたって、勿論どの動詞でもいいというわけではなくて、「ドアが開かれた」などというふうに書くことはできないのだけれど、「怒る」や「驚く」などの感情を表す自動詞以外にも受身になれるものは幾つか存在する。


 例えば「逃げる」は自動詞である("怪獣を逃げる"とは言わない。言うならば"怪獣から"である。)けれど、

「嫁に逃げられた」

 などという。下一段活用動詞「逃げる」の未然形に助動詞「られる」が接続したもので、やはりこれも〈受身〉である。他にも、

「帰り道に雨に降られる」
「横の席で大声で話されたから寝れなかった」
「夜中に子供に泣かれる」

 というような表現が挙げられ、これらには≪迷惑≫や≪被害≫というような性質が共通してみられると思う。感情を表す動詞群、迷惑や被害を表す群、、といった具合にある程度分類ができるのかもしれない。自動詞の受身についての言語形式的な特徴を考えるのもおもしろそうだと思うので、別の機会にじっくり考えたり調べたりしてみたいと思う。


 「怒られが発生した」という表現が持つ、あたかも"責任の所在は自分にはない"というふうに感じさせる力と、怒られているという事象に対する客観性の強さは、所謂問題の外在化という手法にあたるように思うし、それが「怒られが発生した」という言い回しのおもしろみの理由であると思う。問題を自分自身に内在するものとするのではなく、問題を自分とは切り離し自分の外部にあるように言うことで視点を切り替え情緒的なバランスをとるようなはたらきがある、みたいなことなんだと思う。「あー怒られてるなー、自分、不快に感じてるなー」というふうに捉えることで、ある種の平穏や安堵感のようなものを得る、そして「怒られが発生」というコミカルな文体のフレーズを口にする或いは文章として外に出すことでユーモラスに発散する感じなのかな

日本語形容詞の意味拡張 -「やばい」の絶対値的用法

 東京堂出版から出ている『現代形容詞用法辞典(新装版)』という5000円以上する、現代形容詞の意味・用法・類義語・イメージ・ニュアンスを詳説するという本に、やばいという語が収録されていて、そこには

やばい yabai
自分にとって不都合な様子を表す。マイナスイメージの語。もと盗賊・てきや仲間の隠語から共通語化した語で、日常会話で用いられる俗語である。品の良くない言葉であるから、女性はあまり用いない傾向にある。

 と書いてあった。


 「やばい」は、不都合や具合の悪い様を意味する形容動詞「やば」が形容詞化したものであり、たしかに本来否定的な意味を持つ語であるが、"現代形容詞", "新装版"と銘打っているからには上の解説だけでは不十分じゃないかと思った。

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「厄場(やば)」は牢屋や看守を意味すことば


現代における「やばい」が表す意味内容は3種類あって、本来の否定的な用法に加えて、肯定的な用法、肯定・否定性を持たない用法に大別できると思う。


 否定的な用法と肯定的な用法の両方が存在するのは、「やばい」の限定的な元来の否定的な意味が漂白化し、「やばい」の持つ「事態の甚だしさ」を表す意味が残された結果、非限定的な程度形容詞へと変化して、肯定・否定性は文脈によって決定されるようになったのだといえる(と思う)。


 また、「やばい」は形容詞としてだけでなく、動詞や形容詞を修飾する副詞的な用いられ方もする。語形変化を伴わずに強調詞として、他の形容詞の"程度の甚だしさ"を表す。
この用法や程度形容詞としての用法のように、肯定性及び否定性をそれ自体が担わずに程度性の甚だしさのみを示す用法を、絶対値的用法と呼んでる。


 ただ、「やばい」の持つ否定性が一旦完全に漂白化されると仮定すると、それが否定的な意味で用いられる場合に、一度失った否定性を文脈によって再び獲得しているということになってしまう(それは言語の変化や拡張の経済性に反する)。また、形容詞の副詞的な用法について、「すごく」「おそろしく」などが評価の正負に関わらず程度の甚だしさを表すのに対し、「やばい」の副詞的用法は、本来の否定的な意味を肯定的な語(被修飾語)と併せて用いるミスマッチによって刺激的な表現にしているという側面がある。
これら2つを踏まえると、「やばい」が本来もつ否定性は"完全に"漂白化されるわけではないと考えられるのだと思う。


 「やばい」の絶対値的用法だけでなく「すごい」も語形変化を伴わずに用言を修飾するようになっている。「これすごい美味しい!」「今日すごい寒い」のようなやつのこと。「美味しい」の程度性を強調するなら、「すごい」ではなく形容詞連用形の形をした「すごく」という副詞になるべきなんだけれど、「すごい」のまま用言に接続するように用いられる。


 形容詞の連用形は、用言といっても「なる」「ない」のような語に接続するか、助詞の「は」「て」に接続する形である。だから「すごく美味しい」の"すごく"は、形容詞「すごい」の連用形ではなく、「すごく」という副詞であると考える(形容詞の連用形からできた副詞だから、同じではあるけれど)。

すごい-すごく(連用形)
  -すごくなる, すごくない, すごくて


 でもその、形容詞の程度副詞的用法である「すごい暑い」の"すごい"は、どう解釈したらいいんだろう。用言を修飾している時点で形容詞とは言えないんだけれど、「ーい」という形をとっている以上、連体形か終止形のどちらかだと考えられるはずで、個人的には(しいて言うなら)連体形ではなく終止形だと思う。
「今日はすごい暑いな...」を例文にとる。まず「暑い」は体言ではないので、"すごい"を連体形だと解釈する線は消える。しかし、"すごい"を終止形だと考えるからといって、「今日はすごい │ 暑い」というふうに、「今日はすごい。暑いからだ。」という構造ではないから、"すごい"の部分で言い切りの形をとっているというわけではない。終止形だと解釈することで、「すごい」というカタチの、いわば「超」のような"接頭辞"と見た。接頭辞としての「超」も似たような境遇にある語で、もともとは「超音波」「超音速」のように名詞につく(形容詞性名詞を含む)語だったんだけれど、「超嬉しい」のように強調詞としての用法を獲得した語である。
(ちなみに接"尾"辞としての「超」は「未満」の対義語)


 それと、「やばい」の否定的用法は連結語句によって定義外の意味内容を付加させるはたらきがあるといえると思う。

「かなりやばい状況」

これは、「危ない」「不都合な」という定義通りの意味を表す。

「それってやばい仕事じゃないの?」

この文脈だと、「犯罪など法律にふれる仕事」を表していると解釈できる(定義と照らし合わせれば、「危ない仕事」と言っているんだろうと言えるけれど、結局その"危ない仕事"って何なのかと言うと、「犯罪絡み」というふうなニュアンスを内包している)。一見、「やばい」は「あぶない」や「まずい」(不都合さを表す形容詞だから)で置き換えられそうだけれど、「まずい」よりは切迫感がある。


 意味拡張された語はその多義性から他の語の代替として用いることができるようになる。このことは言葉の持つ認識機能とそれの思惟することへの関与をかんがえると、概念の操作的な運用をより不器用的にするし、物事を漠然と観念的にしかとらえられなくなると言うこともできるんだけど、むしろ、拡張された範囲(定義域)の他の語と被っていない意味領域については、拡張された「やばい」(かわいい、エモい等も同様(エモいは新語なので拡張というべきではないけれどこれは当てはまる))でしか表せない意味内容、出せないニュアンスがあると思う。その語でもってでしか概念化できない事象を、語の意味拡張が改めて描き起こしていくというのは、すごく面白いなと思う。

言語は思考の道具であり資本であるので、言葉は思考に差異的に関与すると思う

 これは高校生の時から気になって考えていることで、いつか深堀りしてみたいとずっと思っている話

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Edward Sapir


 言葉の機能は情報の伝達だけにとどまらず、具体的な意味内容を持たない社交機能とか、独り言や叫び声などの半ば無意識的とも言える表出/調整機能、さらに思考機能と認識機能を持つと思っていて、個人的には中でも後ろの2つが特に重要だと思う。


 ヒトは言葉を用いて考えていて、場合によっては映像や旋律で考えることもあるけれど、やっぱり抽象的な概念の操作が言語なしには成り立つことは中々難しいと思う。
カントは知識とは個人が銘々に携わる具体的な認識行為の結果であるという風に言っているんだけど、それを踏まえると、そこにある何かを認知できても(具体的に, 何かが見えているとか)それを識別できなければ知っているということではなくて、言語による認識機能でもって流動的な感覚を直感的に取り出したものである現実を認識(理解)したものが知識(知っている)ってことになる、という話になるんだと思う。


 というのはつまり、各々が現象を個人による認識行為に一度通して解釈してはじめて理解したことになるということだから、同じ事物でも個人それぞれに依って異なる概念として捉えることになる。
で、その認識行為というのが、言語による認識機能でもって行われるのだと思う。(同じ現象を異なる概念としてそれぞれ解釈するような形と、同じ事物でも言語体系に依って異なる形式で解釈するという形に、明らかな類似性があるな、と思う)



 そして、そのように考えていくと、思考は言語に差異的に関与される、と言えると思う。
 思考は思考に用いる言語の(多くの場合、デフォルトは母国語)言語体系に左右されるため、外国語を話すときは(思考言語もその言語に切り替わるわけだから)、思考にも差異がみられるのでは?ということにもなる。(これが高校生の時に、多くの帰国子女の友人らと過ごして思った、この話の発端だ)


 ここで言う"思考体系に関与する言語体系"には、文法規則の体系や語彙体系の特性なんかが含まれるのではないかと思っている。例えば、文法体系としては、ある動作に対して、動作主や目的語の関係によってそれぞれがどのような語形変化や他の形態素を伴うかといった規則や、話者の考えや態度、意図や発話の目的などがどのような文法的な要素に反映されるか、さらには、過去・現在・未来の時間を表すためにその言語がどのような時制を持つかといった要素が挙げられるだろう。
 語彙体系としては、どのような事物や現象、概念がある1つの語として表され、それらがどのような語と組み合わさることでどんな意味を表すかという単語系の特性や、ある語が別の語とどのような相互関係をなして存在し、その意味や形態、用法によってどのように分類することができ、それらの語彙がどのように分布しているのかという、その言語の語彙総体としての特性などが、考えられる。これらの要素が、話者が思考する際に動作する”オペレーティングシステム”に差異的に関与するのではないだろうか、と思う。
 大雑把に単純な具体例を挙げるならば、それぞれの言語には、「否定語は用言の前に置く」「名詞は前から修飾する」「目的語は動詞の後ろに述べられる」みたいな語順の規則や、「過去における動作を表すには動詞の形を変える」「尊敬語は"られ"をいれる」「命令のときは言い切りの形にする」みたいな語形変化の規則といった特有の文法規則の特性があったり、「この言語では話者視点での感情を表す副詞が多い」「手で触れて感じる温度に関する形容詞が複雑に存在する」「一人称が多い」「仮定条件の下での逆接をある一語で規定できる」みたいな特有の語彙体系があったりして、それによって言い表したいある内容の文を作るときの、組み立て方や作り易さみたいなものが異なるだろうということを想像してみると、話が簡単になると思う。
 地図を見ずに歩いて向かうよりも目的地に向かう決まった路線を走る電車に乗った方が速く着けるように、ある思考回路を実行するにあたって、その思考的操作に適した用言や語順、修飾や語形変化の規則を持つ文法体系の方が、より容易く目的の思考(に準ずる精神的な行為)を実行できる。指よりもピンセットを用いた方がより小さなものをつかみ、細かな作業ができ、緻密な組み立てができるように、細かな粒度で概念化するような名詞体系の言語があることによって、外界をより良い分解能で、高い解像度で認識したり、再現・再構築したりできる。みたいなことが、あるんじゃないだろうか。



 そして特に、その言語がどのような語彙体系をしているかということは、話者による外界の認識行為において重要な役割を持つと思う。何かを思ったり考えたりといった精神的な活動において各操作や表現の対象として扱われる個々の概念は、外界では本来、その対象としての実体を持たずに、密接不可分な事象が連続的に存在していると考える。そして、認識行為の主体が、語の定義でもって、それらをある概念単位として切り出す(抽象する)ことで、はじめて、思ったり考えたりといった精神的な行為の、表現や操作の対象として実体を与えることができる、と考えられると思う。つまり外界は予め定義された概念の集合として存在しているわけではなく、言い換えれば、思考に用いる言語が持つそれぞれの語の意味内容が、表現・操作の対象として外界を分割したものの定義域となっていると言える。


 そして、ある語の意味内容の定義域が、その話者どうしで概ね一致するからこそ、同じ単語が同じ事物や行為を指す記号として機能し、話者間での情報の伝達が可能になっている。"概ね一致"としたのは、ある語の定義域の端の部分が、話者それぞれによってわずかに異なる場合があるからだ。それは単にわずかな解釈(理解)の違いによって概念単位のカテゴライズ方法が異なっていることによる場合もあれば、いわゆる「誤用」という場合もあるだろう。話者集合の中で、ある語の定義が画一的にぴたり一致した状態なのではなく、その輪郭には揺らぎがあり、その多様性に対して「より"使いやすい"かどうか」という選択圧がかかっていることは、時間経過や環境の変化によって少しずつ語彙体系がアップデートされる(語の定義の変化や死語・新語の出現など)システムを可能にさせる一つの要因であるように思う。



 では、語の定義とはどのように決定されるのか。日本語では🐕と🐈の2つの動物には、それぞれ"イヌ"と"ネコ"という違う名詞があてられている。このことは、日本語の下での我々の認識においては、🐕と🐈が区別されていることを示している。言い換えれば、🐕と🐈を理解する際に、これら2つの動物の「差異を認識している」ということだ。これは、日本語が話される時間の中で、🐕と🐈は、見た目や鳴き声、行動などから、「異なるものとして扱う」ことにされてきたということである。だから、理論上は、話者が🐕と🐈の差異を識別しない価値観のもとで、「人間と共同生活を送ることができる、有用な、小~中型の四足歩行する獣」と言えるような分類で、"キンダ"みたいな語で括られて同じ動物として扱われることだってあり得ただろう。つまり、ある語の意味内容の定義域について、その境界は他の事物との差異の認識によって決まる、と言えると思う。



 それでは、そのことを踏まえて、話者が言語獲得の段階で、ある語の意味内容を学習する過程について考えてみる。


 言葉を覚える段階の子供(赤ちゃん)がある事物とそれを指す語を結びつける過程は、おそらく、その事物を過不足なく指示する内容をその語の定義として与えられることで為されるわけではないだろうと思う。例えば、🍇←これと"ブドウ"という語を対応させる学習は、「紫色の多数の実がついた房が垂れ下がった果実/1つの実は直系2cm程/甘味と酸味がある/etc...」というふうに、🍇←これを必要十分に定義できる条件を、"ブドウ"という語の定義として教わることでなされるのではないと考える。 
 ある事物とある語の対応づけは、あくまで、具体的にその事物を認識して、それがその語で言い表せるか否かの判別結果が十分量蓄積することによって、その語の意味内容の指示範囲が確定してくることで為されるのではないかと思う。つまり、

🍇="ブドウ" :そうだね
🍆="ブドウ" :違うよ
🍏="ブドウ" :違うよ
🍊="ブドウ" :違うよ
 ....     

というふうに、親や兄弟などの他の話者からの教育や、その語を用いた情報伝達の成立/不成立のフィードバックなどを通して[語-事物ペア]の正誤判定が幾度も行われ、"ブドウ"という語の意味内容が定まっていくのではないだろうか。

 ある事物とある語との対応が、予め与えられた定義条件に基づくのではなく、具体的な事物との結び付けの正誤判定に基づいてその語の意味内容を学習するのならば、🍇以外のあらゆる事物について「"ブドウ"と言い表せるか」の判定が行われなければならないことになる。つまり、ある事物を言い表す語の定義域の決定は「ある事物」以外の全ての事象と「差異の認識」が行われることで為されるはずだ。
 したがって、単語の意味内容は、「~ではないもの」という命題の集合として定義できるということになるだろうと思う。単語が意味する事物の指示範囲は、内側から(すなわち積極的に/能動的に)ではなく、外側から(消極的に/受動的に)定義される、といえる。



 例えば、🦐←これを指す"エビ"という語について考えると、"エビ"という語が定義する事物は、🦐以外の全ての事物Xiについて、それぞれ「x1でないもの」「x2でないもの」...「xkでないもの」という集合を考え、その積集合の補集合に一致する、ということになる。
 すると、仮に、"エビ"という語が存在せず、仮に"半導体"という単語の定義に「🦐でないもの」が包含されていなければ、日本語による認識世界の下ではエビは半導体であることになる。そして、我々が日本語を用いた認識行為の中で🦐が半導体ではないという理解をするためには、「半導体でないもの」の集合の中に🦐が入る必要があるだろう。



 ただし、ここまでの話はあくまでも限定的な、仮説的な条件のもとでの話だ。何かを思ったり考えたりといった精神的な行為や、それらを成り立たせている外界の認識行為のプロセスのうち、言語系による寄与が支配的な場合についてのみ考えたに過ぎないはずだと思う。例えば、真に思考が言語による認識行為や概念的操作でのみ可能となっているのならば、その言語に無い物は考える事もできず、認識することすらできないと考えることができる。

 色は、現実には可視光線の連続的なスペクトルであるが、私達が「色」という概念を扱うにあたって、色の名前として無限個の名詞を用意することはできない。したがって、本来は密接不可分な連続体にもかかわらず、「だいたいここからここまでが"青"」「だいたいここからここまでが"緑"」「だいたいここからここまでが"黄"」というふうに、波長の各領域を「色の名前」設けて恣意的に(論理的な必然性なく!)分割することになる。実際、虹はこの連続的なスペクトルを空に映しているが、文化圏(すなわち、国や言語)によって虹を何色とするかが異なっていることはよく知られている。

 では仮に、"緑色"という日本語に該当する語を持たない言語の話者は、緑色を認識できないのだろうか。完全に言語によって世界観が変わるのならば、その言語に無い色は認識できないはずだ。"緑色"にあたる波長は"青色"と"黄色"の間に存在するが、青色(あるいは黄色)と緑色を見せた時に「これらは同じ色だ」と判断するだろうか。そんなことはないはずだと思う。
 現実に、私達日本語話者は、ワサビのツンとした刺激も、山椒や花椒のピリピリとした刺激も、唐辛子のヒリヒリと残る熱感のような刺激も、全て”辛い”という語で表現していて、これらの感覚を一様に「辛さ」として扱うことが多い。言い換えれば、”辛い”という語は、食味における、口腔内への様々な刺激という官能評価だと説明できる(食味以外での口腔内への刺激、例えば口の中を針で刺したり、内壁を電気で刺激したり、熱湯をかけたりする刺激を”辛い”とはい言わないだろう。あくまで、食味の評価における刺激)。けれども、私達はワサビと花椒と唐辛子の刺激が全て異なることを知っている(理解している)し、それらを異なるものとして扱った思考ができる。
 ヒトの複雑高度な思考は、言語なしには成り立たないが、言語によってのみ可能になっているわけではないのだと思う。まず人体の様々な器官から入力される情報からつくられる世界観が非言語的に成り立っていて、その非言語的思考が基盤となって、その上に言語を必要とする認識行為や思考的な操作が成り立っているんじゃないだろうか。言語は思考に影響を及ぼす(⇔思考は言語に依存する要素を持つ)が、その根本を完全に支配されるわけではない、というのが妥当な解釈なのではないだろうか、、と思う。



 ここまでの話を簡単に、まとめると、
・思考という行為の主体が話すある言語の体系は、話者の思考体系に影響を及ぼしているだろうと考えられる。
・そして、言語を構成する要素の中でも、特に、語彙体系は話者の外界の認識行為に強く関与しているだろうと思う。
・それは、認識行為の主体は、密接不可分な事象が連続的に存在するだけの外界を、ある単語の定義でもってある概念単位として抽象することで、思ったり考えたりといった精神的な操作や表現の対象としての実体を得ることができるからだ。
・このとき、ある単語の定義はその他の単語との差異を定めることによって為されるため、ある単語の意味内容は、あらゆるものについての「~ではないもの」という命題の集合として定義できるだろう。
という具合になる。



 つまりは、言葉は思考の道具であると同時に、思考のための資本であるというように思う。
卵が先か鶏が先かという話ではないけれど、言語と思考は相互作用しあっているという、特に(逆向きの関与はすぐに考えればわかることで)言語が思考に差異的に関与するよねという話っておもしろいよねって話でした。