あたまに運動靴

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雑記。知識の体系的な整理や学術的な解釈の紹介でない

言語は思考の道具であり資本であるので、言葉は思考に差異的に関与すると思う

 これは高校生の時から気になって考えていることで、いつか深堀りしてみたいとずっと思っている話

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Edward Sapir


 言葉の機能は情報の伝達だけにとどまらず、具体的な意味内容を持たない社交機能とか、独り言や叫び声などの半ば無意識的とも言える表出/調整機能、さらに思考機能と認識機能を持つと思っていて、個人的には中でも後ろの2つが特に重要だと思う。


 ヒトは言葉を用いて考えていて、場合によっては映像や旋律で考えることもあるけれど、やっぱり抽象的な概念の操作が言語なしには成り立つことは中々難しいと思う。
カントは知識とは個人が銘々に携わる具体的な認識行為の結果であるという風に言っているんだけど、それを踏まえると、そこにある何かを認知できても(具体的に, 何かが見えているとか)それを識別できなければ知っているということではなくて、言語による認識機能でもって流動的な感覚を直感的に取り出したものである現実を認識(理解)したものが知識(知っている)ってことになる、という話になるんだと思う。


 というのはつまり、各々が現象を個人による認識行為に一度通して解釈してはじめて理解したことになるということだから、同じ事物でも個人それぞれに依って異なる概念として捉えることになる。
で、その認識行為というのが、言語による認識機能でもって行われるのだと思う。(同じ現象を異なる概念としてそれぞれ解釈するような形と、同じ事物でも言語体系に依って異なる形式で解釈するという形に、明らかな類似性があるな、と思う)



 そして、そのように考えていくと、思考は言語に差異的に関与される、と言えると思う。
 思考は思考に用いる言語の(多くの場合、デフォルトは母国語)言語体系に左右されるため、外国語を話すときは(思考言語もその言語に切り替わるわけだから)、思考にも差異がみられるのでは?ということにもなる。(これが高校生の時に、多くの帰国子女の友人らと過ごして思った、この話の発端だ)


 ここで言う"思考体系に関与する言語体系"には、文法規則の体系や語彙体系の特性なんかが含まれるのではないかと思っている。例えば、文法体系としては、ある動作に対して、動作主や目的語の関係によってそれぞれがどのような語形変化や他の形態素を伴うかといった規則や、話者の考えや態度、意図や発話の目的などがどのような文法的な要素に反映されるか、さらには、過去・現在・未来の時間を表すためにその言語がどのような時制を持つかといった要素が挙げられるだろう。
 語彙体系としては、どのような事物や現象、概念がある1つの語として表され、それらがどのような語と組み合わさることでどんな意味を表すかという単語系の特性や、ある語が別の語とどのような相互関係をなして存在し、その意味や形態、用法によってどのように分類することができ、それらの語彙がどのように分布しているのかという、その言語の語彙総体としての特性などが、考えられる。これらの要素が、話者が思考する際に動作する”オペレーティングシステム”に差異的に関与するのではないだろうか、と思う。
 大雑把に単純な具体例を挙げるならば、それぞれの言語には、「否定語は用言の前に置く」「名詞は前から修飾する」「目的語は動詞の後ろに述べられる」みたいな語順の規則や、「過去における動作を表すには動詞の形を変える」「尊敬語は"られ"をいれる」「命令のときは言い切りの形にする」みたいな語形変化の規則といった特有の文法規則の特性があったり、「この言語では話者視点での感情を表す副詞が多い」「手で触れて感じる温度に関する形容詞が複雑に存在する」「一人称が多い」「仮定条件の下での逆接をある一語で規定できる」みたいな特有の語彙体系があったりして、それによって言い表したいある内容の文を作るときの、組み立て方や作り易さみたいなものが異なるだろうということを想像してみると、話が簡単になると思う。
 地図を見ずに歩いて向かうよりも目的地に向かう決まった路線を走る電車に乗った方が速く着けるように、ある思考回路を実行するにあたって、その思考的操作に適した用言や語順、修飾や語形変化の規則を持つ文法体系の方が、より容易く目的の思考(に準ずる精神的な行為)を実行できる。指よりもピンセットを用いた方がより小さなものをつかみ、細かな作業ができ、緻密な組み立てができるように、細かな粒度で概念化するような名詞体系の言語があることによって、外界をより良い分解能で、高い解像度で認識したり、再現・再構築したりできる。みたいなことが、あるんじゃないだろうか。



 そして特に、その言語がどのような語彙体系をしているかということは、話者による外界の認識行為において重要な役割を持つと思う。何かを思ったり考えたりといった精神的な活動において各操作や表現の対象として扱われる個々の概念は、外界では本来、その対象としての実体を持たずに、密接不可分な事象が連続的に存在していると考える。そして、認識行為の主体が、語の定義でもって、それらをある概念単位として切り出す(抽象する)ことで、はじめて、思ったり考えたりといった精神的な行為の、表現や操作の対象として実体を与えることができる、と考えられると思う。つまり外界は予め定義された概念の集合として存在しているわけではなく、言い換えれば、思考に用いる言語が持つそれぞれの語の意味内容が、表現・操作の対象として外界を分割したものの定義域となっていると言える。


 そして、ある語の意味内容の定義域が、その話者どうしで概ね一致するからこそ、同じ単語が同じ事物や行為を指す記号として機能し、話者間での情報の伝達が可能になっている。"概ね一致"としたのは、ある語の定義域の端の部分が、話者それぞれによってわずかに異なる場合があるからだ。それは単にわずかな解釈(理解)の違いによって概念単位のカテゴライズ方法が異なっていることによる場合もあれば、いわゆる「誤用」という場合もあるだろう。話者集合の中で、ある語の定義が画一的にぴたり一致した状態なのではなく、その輪郭には揺らぎがあり、その多様性に対して「より"使いやすい"かどうか」という選択圧がかかっていることは、時間経過や環境の変化によって少しずつ語彙体系がアップデートされる(語の定義の変化や死語・新語の出現など)システムを可能にさせる一つの要因であるように思う。



 では、語の定義とはどのように決定されるのか。日本語では🐕と🐈の2つの動物には、それぞれ"イヌ"と"ネコ"という違う名詞があてられている。このことは、日本語の下での我々の認識においては、🐕と🐈が区別されていることを示している。言い換えれば、🐕と🐈を理解する際に、これら2つの動物の「差異を認識している」ということだ。これは、日本語が話される時間の中で、🐕と🐈は、見た目や鳴き声、行動などから、「異なるものとして扱う」ことにされてきたということである。だから、理論上は、話者が🐕と🐈の差異を識別しない価値観のもとで、「人間と共同生活を送ることができる、有用な、小~中型の四足歩行する獣」と言えるような分類で、"キンダ"みたいな語で括られて同じ動物として扱われることだってあり得ただろう。つまり、ある語の意味内容の定義域について、その境界は他の事物との差異の認識によって決まる、と言えると思う。



 それでは、そのことを踏まえて、話者が言語獲得の段階で、ある語の意味内容を学習する過程について考えてみる。


 言葉を覚える段階の子供(赤ちゃん)がある事物とそれを指す語を結びつける過程は、おそらく、その事物を過不足なく指示する内容をその語の定義として与えられることで為されるわけではないだろうと思う。例えば、🍇←これと"ブドウ"という語を対応させる学習は、「紫色の多数の実がついた房が垂れ下がった果実/1つの実は直系2cm程/甘味と酸味がある/etc...」というふうに、🍇←これを必要十分に定義できる条件を、"ブドウ"という語の定義として教わることでなされるのではないと考える。 
 ある事物とある語の対応づけは、あくまで、具体的にその事物を認識して、それがその語で言い表せるか否かの判別結果が十分量蓄積することによって、その語の意味内容の指示範囲が確定してくることで為されるのではないかと思う。つまり、

🍇="ブドウ" :そうだね
🍆="ブドウ" :違うよ
🍏="ブドウ" :違うよ
🍊="ブドウ" :違うよ
 ....     

というふうに、親や兄弟などの他の話者からの教育や、その語を用いた情報伝達の成立/不成立のフィードバックなどを通して[語-事物ペア]の正誤判定が幾度も行われ、"ブドウ"という語の意味内容が定まっていくのではないだろうか。

 ある事物とある語との対応が、予め与えられた定義条件に基づくのではなく、具体的な事物との結び付けの正誤判定に基づいてその語の意味内容を学習するのならば、🍇以外のあらゆる事物について「"ブドウ"と言い表せるか」の判定が行われなければならないことになる。つまり、ある事物を言い表す語の定義域の決定は「ある事物」以外の全ての事象と「差異の認識」が行われることで為されるはずだ。
 したがって、単語の意味内容は、「~ではないもの」という命題の集合として定義できるということになるだろうと思う。単語が意味する事物の指示範囲は、内側から(すなわち積極的に/能動的に)ではなく、外側から(消極的に/受動的に)定義される、といえる。



 例えば、🦐←これを指す"エビ"という語について考えると、"エビ"という語が定義する事物は、🦐以外の全ての事物Xiについて、それぞれ「x1でないもの」「x2でないもの」...「xkでないもの」という集合を考え、その積集合の補集合に一致する、ということになる。
 すると、仮に、"エビ"という語が存在せず、仮に"半導体"という単語の定義に「🦐でないもの」が包含されていなければ、日本語による認識世界の下ではエビは半導体であることになる。そして、我々が日本語を用いた認識行為の中で🦐が半導体ではないという理解をするためには、「半導体でないもの」の集合の中に🦐が入る必要があるだろう。



 ただし、ここまでの話はあくまでも限定的な、仮説的な条件のもとでの話だ。何かを思ったり考えたりといった精神的な行為や、それらを成り立たせている外界の認識行為のプロセスのうち、言語系による寄与が支配的な場合についてのみ考えたに過ぎないはずだと思う。例えば、真に思考が言語による認識行為や概念的操作でのみ可能となっているのならば、その言語に無い物は考える事もできず、認識することすらできないと考えることができる。

 色は、現実には可視光線の連続的なスペクトルであるが、私達が「色」という概念を扱うにあたって、色の名前として無限個の名詞を用意することはできない。したがって、本来は密接不可分な連続体にもかかわらず、「だいたいここからここまでが"青"」「だいたいここからここまでが"緑"」「だいたいここからここまでが"黄"」というふうに、波長の各領域を「色の名前」設けて恣意的に(論理的な必然性なく!)分割することになる。実際、虹はこの連続的なスペクトルを空に映しているが、文化圏(すなわち、国や言語)によって虹を何色とするかが異なっていることはよく知られている。

 では仮に、"緑色"という日本語に該当する語を持たない言語の話者は、緑色を認識できないのだろうか。完全に言語によって世界観が変わるのならば、その言語に無い色は認識できないはずだ。"緑色"にあたる波長は"青色"と"黄色"の間に存在するが、青色(あるいは黄色)と緑色を見せた時に「これらは同じ色だ」と判断するだろうか。そんなことはないはずだと思う。
 現実に、私達日本語話者は、ワサビのツンとした刺激も、山椒や花椒のピリピリとした刺激も、唐辛子のヒリヒリと残る熱感のような刺激も、全て”辛い”という語で表現していて、これらの感覚を一様に「辛さ」として扱うことが多い。言い換えれば、”辛い”という語は、食味における、口腔内への様々な刺激という官能評価だと説明できる(食味以外での口腔内への刺激、例えば口の中を針で刺したり、内壁を電気で刺激したり、熱湯をかけたりする刺激を”辛い”とはい言わないだろう。あくまで、食味の評価における刺激)。けれども、私達はワサビと花椒と唐辛子の刺激が全て異なることを知っている(理解している)し、それらを異なるものとして扱った思考ができる。
 ヒトの複雑高度な思考は、言語なしには成り立たないが、言語によってのみ可能になっているわけではないのだと思う。まず人体の様々な器官から入力される情報からつくられる世界観が非言語的に成り立っていて、その非言語的思考が基盤となって、その上に言語を必要とする認識行為や思考的な操作が成り立っているんじゃないだろうか。言語は思考に影響を及ぼす(⇔思考は言語に依存する要素を持つ)が、その根本を完全に支配されるわけではない、というのが妥当な解釈なのではないだろうか、、と思う。



 ここまでの話を簡単に、まとめると、
・思考という行為の主体が話すある言語の体系は、話者の思考体系に影響を及ぼしているだろうと考えられる。
・そして、言語を構成する要素の中でも、特に、語彙体系は話者の外界の認識行為に強く関与しているだろうと思う。
・それは、認識行為の主体は、密接不可分な事象が連続的に存在するだけの外界を、ある単語の定義でもってある概念単位として抽象することで、思ったり考えたりといった精神的な操作や表現の対象としての実体を得ることができるからだ。
・このとき、ある単語の定義はその他の単語との差異を定めることによって為されるため、ある単語の意味内容は、あらゆるものについての「~ではないもの」という命題の集合として定義できるだろう。
という具合になる。



 つまりは、言葉は思考の道具であると同時に、思考のための資本であるというように思う。
卵が先か鶏が先かという話ではないけれど、言語と思考は相互作用しあっているという、特に(逆向きの関与はすぐに考えればわかることで)言語が思考に差異的に関与するよねという話っておもしろいよねって話でした。